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会場HowHightheMoon店主に聞く、店の来歴と高円寺現代芸術シーン

「HowHightheMoon(はうはいざむーん)」の店主・J氏は、15年前から、最初の店舗「凹凹(ぼこぼこ)」・次いで、初代HowHightheMoon・そして当展示の会場である2代目HowHightheMoonと、計3軒のカフェバーを東京・高円寺で開いてきた。凹凹は、95〜2003年の高円寺の「伝説」の現代芸術運動・岡画郎(おかがろう)の跡地に設けられていた。J氏の3軒の店の来歴を、岡画郎の話と絡めて伺った。(聞き手・山本)

岡画郎の閉店、凹凹の開店

J: 2003年の3月をもって岡画郎がいちど閉店するという話になって、そこで当時顔をだしていた私が手を挙げて「店やってもいいですか」って言って、「あ、いいよ」って岡啓輔さん(岡画郎の主宰者)に言われたのでそのまま又借りでナシクズシ的に物件に入り、特になにも許可を取らず、モグリで飲食店を始めてしまいました。

──岡画郎には前から出入りされていたの?

J: 岡画郎の1999年とか2000年位の、いちばん最後のレギュラーメンバーです。

──Jさんは学生時代からの知己だけど、それは初めて聞いたかも。私自身は岡画郎があった当時は存在を知らなくて、後から話を聞いて面白そうだなと思ってました。

J: 岡画郎は「共同制作」というのを「定例会」をしながらやってて、一応、自分が主催というか……主催じゃないな、アイデアが採用されたのがほんとにもう最後のほう、終了のときのお祭りでいくつか……ナントカ放題って面白いよねって話が出て、食い放題とか飲み放題とかね……そういう話のなかで企画を考えていろいろやったのは覚えているんだけど……まあ岡画郎にたいした貢献はしてないです。「音だし放題」ってのをやって警察が来たのは覚えてる。「うるせえ」って。まあそれはうるさいよね。

最初は岡画郎がいったい何なのかもわからなくって。ただ当時バックパッカーとかをやっていたんだけど、東京にもこんなバックパッカー的な腐ったところがあるんだ、って思った。高円寺いい街だなって。それで高円寺に初めて来たの。最初に連れてきてくれたのは「ハイカラハミチ」さん。だから彼がいなかったら高円寺のこの店はない。

──ハミチさん、ライブで見たことしかない。何をやってる人なの?

J: ハミチさんは、このへん出身の、ダメなロックミュージシャンですね、ハイ。最近は主に、アイカツとかのアニメ関連のイベントによく出演されてるようです。うちのバンドでもサポートで弾いてもらったりしてます。ルーテル大から隣の国際基督教大の「メロディユニオン」(J氏の所属していた軽音サークル)に出入りしていて、そのとき仲良くなったメンツが俺とハミチさんとハッちゃんとかマスダさんとか。まあもう音楽やってる人なんてほぼいない。たまに曲作ってライブやって、なんていうのは俺しかいない(笑)

岡画郎の企画は俺はほとんどやってない。ちょっとだけ。話をしたりして……ああこういう所なんだ、って。美術は当時ほとんど、今ほどはわかってなくて。岡画郎には美術とか好きそうな人が一応集まっていた。まあ実態はグチャグチャだったんだけど。

──だいたい何人ぐらいのメンバーでやってたんですか?

J:毎週土曜の夜の8時から「定例会」があって、一応名目上はその「定例会」上で「共同制作」の話し合いをするというかんじだったんだけど、そこにだいたい、少なかったらまあ3、4人という日もあるし、多いと入りきれないくらい…20、30人くらい来ていた。

──そんなにいたんだ。

J:そういうすごく人多いときに限って関根さん(関根正幸氏、写真家)がなんかお土産で持ってきたクサヤをベランダで焼き始めたりして、「こいつぶっ殺してやる」とか思ったり(笑)ほんとめちゃくちゃな感じだった。

そのときのメンバーは……名前言ってもほとんどわかんないと思うけど……最後のほうで俺が覚えてるのは……一応「ブレイン」みたいに呼ばれてる人がいて、岡さん以外に、小川てつオさんと、溝口さんという人と、水口さんという人。ちょっと混ざりやすいんだけど、溝口さんは写真を撮ったりDJとかやってる人で、水口さんは美術ちゃんとわかってる人。小川てつオはもう「巨匠」として。ちなみに関係ないけど、溝口さんは今、俺たまに一緒に仕事したりしている。デザインとかウェブの仕事。あと主要メンバーは、アラカワさんとかチョチョとか、藤枝さんって漫画家の人とか。アットくんという、俺と同い年で、DJクラッシュの事務所で働いててDJとかやってるミュージシャンみたいな人とか。あと誰がいたっけな、ナナくんとかね、いろいろいたんですよ竹重くんとか、関根さんも最後までいたし。谷くんもそのときのメンツです。だいたいこのへんうろうろしてる人は……剛総さん(冨永剛総氏、写真家)もそこで会った。あと元気いいぞうさんとか。あと斉藤晋さんという、獅子舞とかで食ってるカッコいい人。あとウクレレさんっていう、新宿とかのロフトから阿佐ヶ谷ロフトまで5店舗くらい店長やってた人。

──剛総さんは最近「美學校」のイベントでお会いした。友達だったんですね。

J: 俺、剛総さんにはある意味すごく感謝してる。剛総さんは大事な役割を果たすんだよ。岡画郎がなくなったとき、俺そこにそのまま住もうと思ったの。家具とかなんにもなかったけど。当時武蔵境で俺が住んでた部屋は、弟が大学に入って上京してきたから、じゃあ家具ごとあげるよってなったから。だからもう何もなくて、岡画郎が残してったカビだらけの冷蔵庫しかなくて。どうしようかなって考えてたときに剛総さんがふつうにピンポーンって来て、話して。そのときは飲食店にするつもりなんてまるでなくて、飲食もそんなに興味なく……そんなこともないけど、まあなかった。そのとき岡画郎の家賃が6万3000円だったかな。

で、仮に、ここに来た人にコーヒー1杯350円で出して、儲けが200円だったら、月何杯コーヒー売れば家賃が払えるのかって皮算用を剛総さんが始めて。その時は「へえ」って聞いてたんだけど、いや待てよ、その計算はイケないかもしれないけど、でももしかしたらイケるかも、って思って、その時初めて「飲食店にしよう」って思ったの。そうだよ、剛総さんのおかげなの。もしかしたら俺もぼんやり頭の中にあったのかもしれないけど、そうやって方向付けてくれて。

で、岡画郎があった部屋で最初の店凹凹を始めた。そもそも絶対許可下りない場所だし、よく摘発されずに4年くらい続けたもんだなって思う。

すごくいいビルの危機

 その凹凹が入ってたのは「第五下田ビル」って雑居ビルなの。まあ今も私の本籍地は第五下田ビルなんですけど、そのビルはもう世の中にはないビルなんです。第五下田ビルって言うだけあって、第八下田ビルまである。下田さんというスーパー地主がオーナーのビルだったんですが、バブルで大失敗してほとんどすべてのビルを失い、最後にひとつだけ残った超お気に入りのビルが第五下田ビルだったの。下田さんは第五下田ビルで管理人のようなことをやってたんだけど、そのビルももう借金のカタにとられてしまっていて、基本的にはお情けみたいなかんじで管理人をやらせてもらっていた。高円寺南口にある「大東京信用金庫」っていうところが抵当として押さえていたの。「家賃をおまえがうまいこと徴収して早く借金返せよ」ってわけで。

 

でも第五下田ビルすごくて、家賃3か月遅れまで見逃してくれるの。で、だいたいみんな3ヶ月までマックス滞納してる(笑)。みんな毎月10何日になると「家賃払ってませんよね」って封筒が郵便受けに入ってる。みんな丸々2か月は滞納してて。家賃ぶっちぎって払わないっていう変なビルだったの。そんなかんじで、いつ競売にかけられてもおかしくなくって、結局競売にかけられるんですよ。

下田さんもちょっと頑張って、「チャンスだ、買い戻そう」と思って頑張った。それで下田さんはなんと「凹凹」に来て(笑)そのとき岡さんとか、何人か、けっこう岡画郎の主要メンバーがいた。違法で自分ちのビルで店やってるというところにそこの大家がきて「どうしようか」って言うの。「ここ買い戻すために僕頑張るよ」って。ちょうど1階に「プラネット3rd」が入ってて、そこのオーナーに買い取ってもらうのはどうだろうとかいろいろ考えた。その、最有力だった「プラネット3rd」は「カフェカンパニー」って会社がやってて、その会社は当時上場しようと頑張ってたの。今「Wired Cafe」ってJRのビル全部に入ってるようなカフェ、あれをやってる会社なんですよ。だから、そっちのほうで忙しくて。競売って現金だからね、現金2億円って今ちょっとムリ、みたいな。で、頓挫し、下田さんだってそんなお金持ってないし、俺だってまだ当時20代前半とかで「2億円今すぐ」なんて当然ムリで。結局競売で別のところが買ってしまった。

 それが「アトリウム」って西武系列の会社なんです。西武資本100%のいわゆる「不動産再生事業」って、まあ汚れ仕事ですね、競売にかかってまだ住人がいる、地上げ案件になりそうなやつをバーンと買って、「おまえどうなってるかわかってるんだろうな」って言って、住人追い出してそのビル潰して、新しいきれいなビル建てる、不動産再生事業という仕事があるんですけれど、そこに買われて。

 

で、最後その人たちが部屋に乗り込んできて「てめえわかってんだろな、出てかなかったらブルドーザーで潰されても文句言えねえぞ」ってなるから「はああ、すげえなあ」って思いながら、録音しながらそれを聞いてた。まあ抵抗するつもりはそもそもないんだけど、強制的に追い出されたっていう。最後、ビルの住人はけっこう仲良くなってて、隣の人とかほとんど話したことなかったんだけど部屋にきて「いやあ悲しいですよね」とか「じゃあ今度どこかで会いましょう」とか話をして解散したという、すごくいいビルが第五下田ビル。

初代HowHightheMoon

J: 凹凹はそんなかんじで自然消滅的になくなってしまって、そのあと物件を探したんだけどちょっといいところが見つからなくて。条件も折り合わず……今まで6万3000で借りてた物件だったし、まあそんなところはまず見つからず。しばらく阿佐ヶ谷のガード下の「ゴールド街」……今もうないゴールド街ですね、潰されてなくなってるゴールド街…うちが入った物件は全部もうないんだけど(笑)阿佐ヶ谷のガード下に倉庫を借りて、そこに避難してました。そこで半年くらいウェブ開発とかの仕事をしていた。その間は店がなくて、でも物件は探してて、ガード下もいいなあと思ってた。そもそもさっき言った「プラネット3rd」をやってた「カフェカンパニー」は最初は渋谷のガード下に物件を借りてて、そこはJRの物件なんです。だからその繋がりも若干あってJRのガード下で探してたんです。でもそれはうまいこと見つからず、そんな中で「ここどうすか」って言われたのが高円寺北口の駐輪場の目の前の物件の2階だった。そこは家賃が20万と高い。でもまあ20万か、まあやってみるかって思ってそこに入って、ちゃんと店を始めた。それが1軒目のHowHightheMoonまあ当たり前のことなんだけど、保健所とかの許可もちゃんと取って、ちゃんとした店舗になったのが2007年。

──店名だけでなくて、コンセプトも凹凹とHowHightheMoonはちょっと違うんですね。

J: そう、凹凹はなんで凹凹っていうかと言うと、第五下田ビルは上から見ると「凹」の字になってるの。いまだにその凹の字の間にはまる小さい部分には当時と同じ小さいアパートが建っているんだけど、そういう変な形のビルだった。あとそうだ、中野の純喫茶「クラシック」……これも今はもうなくなったね、そこで岡画郎のアット君と「店の名前どうしようか」って話してて、当時……まあ今もあるっちゃあるんだけど「日本語ドメインが取れる」サービスがあって、漢字ドメインが取れるの。「死刑.com」とかね。で、「漢字ドメインいいよね」って話になって、でも外人は漢字読めないから、わかりやすい記号で書きたいと思った。凹の字って漢字に見えないような文字だから。まあ「凸凹」でもいいんだけど、いろいろ考えて、表記としては凹の字を2つ重ねた。だから凹凹の店名は漢字ドメインを意識してたんです。訊かれるといろいろ思い出しますね。今はなき喫茶店・中野クラシックで話して決めました。

凹凹をやってた当時はもうなんでもアリで、家賃のぶん稼げればなんでもよかった。メニューとかも超てきとうで「高円寺どんぶり」とか「コバイヤ汁」とか、冬は鍋やったり、そんなふうにむちゃくちゃで。でもHowHightheMoonになるときちょっとカッコつけて……家賃が20万でそれはもうちゃんと稼がなきゃいけないと思ったし。

 で、ちょっとおしゃれにしようと思って、それでちゃんとおしゃれにしたんです。家具とかも、基本的には全部スカンジナビア半島で作られているヴィンテージの……それも、「チーク」っていう素材があるんですけれども、そのチークで作られた家具だけを使おうと思ったの。当時まだ若干ミッドセンチュリーとか流行ってた時代で、凹凹は完全にミッドセンチュリーな家具だった。そのあと北欧が流行るんだけど、まだあんまり日本では手に入らなくて、揃えるのにものすごく苦労したのを覚えてる。で、白壁に一応ナチュラルっぽい木の床と、横に間接照明なんかあって、北欧のちょっと……まあだいぶ古い家具を置いて。いちばん最初は言ってなかったんだけど、始まってちょっとしてから「ワインバー」って名乗るようになって、当時まだワインは、まあそこまで詳しくなかったんだけどむりやりってこと。それと、旅行でけっこう東欧に行ってたのでハンガリー料理とか出すようにしたの。これが、「ハンガリー料理」で検索すると3番目くらいに出ちゃうようになって、これはマズいって思ってちょっと下げたりして(笑)。そこまでガチじゃないのにハンガリー大使館の人とか来ちゃって、「すみません、これはぜんぜんただの一ファンっていうか、別にそこまでコミットしようとしてるわけじゃないんですけど……」っていう話になる。で、ハンガリー料理っていうのは撤回して、「東欧料理(ぼんやり)」みたいな、そんなかんじにしました。初代HowHightheMoonはそんなふうに始まった。

──How High the Moonの店名はジャズですか?

J:「How High the Moon」は一応ジャズのスタンダード曲で、エラ・フィッツジェラルドとかが歌ってることで有名なナンバーなんだけど、なんで俺がHow High the Moonという文句を知ったかというと、もともと凹凹を作ってるときに、さっきも言ったように家具が何もない状態で、「椅子が欲しいな」って思ったの。当時から椅子はけっこう興味あって調べてたの。当時のiBookで。インターネットと裸電球と腐った冷蔵庫しかなかったの。で、椅子カッコいいのないかなって探してたらHow High the Moonって名前の椅子があって。それは倉俣史朗っていう有名なプロダクトデザイナーが作ってるの、その人は実は高円寺に自宅があったんだけど、もう死んじゃったんだけど。その人は「ミス・ブランシェ」って曲作ったり椅子も作ってて、ジャズ好きなおっさんなんだ。まあおしゃれなおっさんなんだよね、きっと……でHow High the Moonって椅子も作ってて、すげえカッコいいんだよ、その椅子が。これ欲しいなって思って幾らだろって見たら100万円とかしてて、ふざけんじゃねえよ(笑)。そのときのことをずっと覚えててHow High the Moonカッコいいな欲しいなって……候補は他にもいくつかあったんだけど。

水没してるからちょっと月に行きたいな

 だけどこれ、訊かれたから思い出したんだけど、最初に凹凹を作ったときのコンセプトがあったんだ。凹凹は半分ベランダ席みたいな店で、半分室内、半分ベランダ、厨房もベランダにあって。そのとき思ったのが、このベランダって船の甲板みたいだなって。東京はよくわかんないけどもう水没したものと考えよう、って思って。当時まだ津波とか来てないけど、まあ何かあって、東京は大水没したと考えて、どのへんまで……まあ渋谷はとりあえず水没させたいと思ったんだけど、渋谷を全部水没させて109のてっぺんくらいしか残らないときに杉並はどのくらい水来るのかなって関根さんと考えてて(笑)。「プラネット3rd」はまあ沈むよってなって、まあそうだよね。で、ちょうど俺たちのベランダくらいに水面があって、みんな船とかで出勤してて。そういう船のイメージで「凹凹」を作ったんですよ。外を全部白く塗って甲板っぽくしてるのはそういうわけ。

 

その後……それがどうなったんだっけな……そうだ、「凹凹」は今言ったように水没した街の船の甲板なの。で、HowHightheMoonはその後どうなったかというと、HowHightheMoonの1軒目……旧HowHightheMoonは、あれは「飛行船の食堂」って設定だったんです。実は全部の席に名称っていうか役割があって…ここは通信兵とか、ここは機関士とか、ここは料理人とか……全部役割があって。で、あそこは、水没した街から飛行船を作って、月に向かって飛び立つっていう設定なのね。水没してるからちょっと月に行きたいなって。で、月に向かうんだけど、いつまでたっても月にたどり着けないよっていうコンセプトなの。だからHow High the Moonということ。俺がやってきた3軒の店には、そういうストーリーも実はあるんです。まあディストピアSFなんだけど、地球が崩壊したというかグチャグチャになったあとにどうやってみんな楽しく生きていくか、っていう。

──その話すき。

J: まあそんな流れがあります。

現HowHightheMoon

──ここ(2代目HowHightheMoon、凹凹から数えて3軒目)は、その流れでいくとどうなるの?

J: それはもう決まっていて、月にたどり着けなかったんですよ。

──うん。

J: で、不時着するんです。

──不時着する。

J: そうするとね、たまに俺が描いてる飛行船のイラストあるじゃん。

──ありますね(お店のHPなどにある)。

J: あれ実はパカッと半分に割れるんですよ。で、パカッと分かれてなんにもないところに降り立って、月はまだそこにあるんだけど、ちょっと見えないところにあるの。で、飛行船はとりあえずダメになって、半分に割れちゃったから、ラジオ局を作ろうってなるの。

 で、パラボラアンテナのイラスト……俺の名刺とかになってるやつがあるんだけど、それが飛行船の割れた半分なの。それでパラボラアンテナみたいの作って、外に向かって通信し始めたいんだけど、それはFMラジオとか、まあラジオ局になるの。

 で、ラジオ局も作ったし、まあ食堂の設備もあるし、とりあえず酒でも飲みながらラジオ流すか、って。だから、月に向かって飛び立った飛行船が、物理的に上に行けないから今度はその、ラジオ……というかラジオだかもっと別のものを使って世界とコミュニケーションをとろう、みたいなストーリーの最中が今ここ。

──そう、そこ(店の前)の電柱?みたいなの使って海賊ラジオやろうって前に言ってらっしゃいましたね。

J: そう、海賊ラジオやる予定で、それもほんとに偶然なんだけど、「凹凹」の最初期の時代に「海賊ラジオやりたい」って言ってたらそのときお店に来てた電気工事屋のおじさんが「やろうと思ったらできるよ」って言って。「鉄塔が近くにあったらブーストできて九州くらいまでは聴けるから」って。「鉄塔か、高円寺だとどこだろ」って考えたらそこ(店の前)じゃん。偶然その近くに引っ越せたから、今からの目標としては鉄塔使って悪いことする(笑)。

それが完成したらこの店はもう捨ててもいいかな。

──また次に行くの?

月がどれだけ高かろうが

J: 「また次に」ね、まあそういうSF的なストーリーがある。「How High the Moon」って「月がどれだけ高かろうが」って言い回しだから。そう、すごくいい歌詞なんですよ、「How High the Moon」。ちょっとわかりづらい歌詞なんだけど。今検索しますね……

Somewhere there's music

How faint the tune

Somewhere there's heaven

How high the moon

 どっかに音楽は流れているよね、それがどれだけかすかに、かすれていようが。どっかに必ず天国はあるよね、月がどれだけ高く、向こう側にあろうが。っていう、この冒頭の部分がすごく好きで。手を伸ばして届くように見える月は実ははるか向こう側にあって、こんなんもうムリっしょってみんな思ってても、いやいや、見えてるし聴こえてるからそこにあるよね、ということを言ってる音楽に聴こえて、それがいいなって思う。で、これがSF的なかんじでいいかなって思う。

──じゃあ海賊ラジオはこれからだね。

J: そう、これから。やろうと思っていろいろ試したけどまだできてなくて。でも今は海賊ラジオの時期としてはすごく良いの。

──時期って?

J: 海賊ラジオでいちばんやりたいことって、「鉱石ラジオ」を人に作らせたいの。鉱石ラジオっていうのはラジコンとかやってる人だったらみんな知ってる、クリスタルって石を使ってAMラジオを受信するの。それのすごいところは、電池とかなにもなくても電波を受信して音を聞くことができるの。で、一応言い訳としては、今誰でもすごく簡単に通信できて通信機を持ってて、世界中誰とも通話できるしなんでも検索できるってかんじだけど、もし仮にインフラがぶっ壊れて電話繋がらなくなっちゃったらもう何もできなくなっちゃって、受信も送信もなにもできないじゃん。そんなとき最低限のラジオの知識があったら、ここから何か流すことは、最低限足こぎ自転車でできる電気があればできて、受信する側は鉱石ラジオがあれば情報をゲットすることができて。その仕組みに関して、自分たちで考えてやりましたっていうのはなんだかリアルに意味がある気がするから。たとえ一生使わなくても。そういう基地局みたいのを1個作れるとカッコいいかなって。それを1回やってみたってだけでいいかなって思って。それがやりたいですね。鉱石ラジオってすごくカッコよくて、鉱石ラジオについての本があって……谷川俊太郎が鉱石ラジオについて語ってるのがあって、それがすごく良かった。

──ラジオで流すコンテンツはどういうのを考えてるの?

J:それがないんですよ。それが(計画が)とまってる理由としてあって、単純に人の曲流すだけだったら面白くない。しゃべりたいことも考えなきゃいけないんだけど、それもみんなとくにないんですね。一応ゲンナカさんって人と2人でこういうことしたいねって考えてるんだけど、それも結局は他人の曲流すことになるんだよね。基本的には60年代以降のロックの歴史について2人で話しながら1曲ずつかけていくみたいなかんじになると思う。そういうトークは前にイベントで実験的にやって、自分たち的にはまあ面白かったんだけど。

──コンテンツありきっていうよりは仕組みを作りたいということ?

J: そう、仕組みだけです。中身はどうでもいい。

そもそもアマチュア無線もそうで、内容はどうでもいいんだよね。通信することが目的だから。その通信インフラが完全に自分たちの手を離れてしまっているということに若干の恐怖みたいのがあって、アナログ電話だって家にないし、ほんとに携帯が使えなくなったら終わるし、インターネットがなくなったら終わるわけだし、そんなときにモールス信号だってわからないし手旗信号だってわからないし狼煙だって共通言語がないし、あと鳩だって使えないし。そんなとき、ギリギリ文明のラインに入っていて、少なくともみんな触ったことがあるものってラジオかなって思って。それがスマホじゃなくて鉱石ラジオでもいいかなって。だいたいカッコいいじゃないですか。クリスタルって石だよ。石で電波受信して音が聴けるなんてすごくカッコいい。ただそのハード側に興味があるということです。中身はどうでもいいです。ただし「政治・宗教」に関わらないものだね(笑)。

──(笑)。政治で思い出したんだが、高円寺というと「素人の乱」のイメージが強いし、お店の立地も近くだけど「素人の乱」とは関わりはないの?

J: まったく関わりがないです。俺は「素人の乱」はよくわからない。あと、反原発を頑張ってる印象があるんだけど、俺は原発推進派ではないにしてもテクノロジーを信奉してる派だし、反原発でもただバカ騒ぎしたいだけに見えてしまうのはよくないって思う。客層もほとんど被らないかな。やっぱりお客さんも何か感じるところが違うんじゃないかな。

 でも岡画郎は「素人の乱」と関係あるといえばあって、でもまあ法政大の人たちと基本的に絡んでなかったけど……「法政の貧乏くささを守る会」が「素人の乱」の前身だと思うけど、岡画郎はどっちかというと「だめ連」の人が出入りしてた。だから早稲田大学ですね、どちらかというと。でも、それと全然関係ないような俺みたいのが跡を継いでることを考えると、岡さんはそのへん自由な人だったんだなって。

 (2017.4.11)


 

プロフィール

J   1980年10月1日生まれ。幼少期をロサンゼルスで過ごす。愛知県滝高校卒業。国際基督教大学中退。バックパッカーを経てNTTdocomo入社。退職後2006年office-copernica設立。ウェブデザイン、システム設計、イベント運営。最近は地下アイドルのプロデュース。

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